「何が食べたい?」とか「どこに行く?」と尋ねた時に、
「なんでもいいわ」「どこでもいいよ」と返事されると
わずかにですが、ムカつきます(笑)。
もちろん、尋ねたわたしに”譲歩”してくれてる場合がある
というのも理解してます。
でも、「なんでもいい」「どこでもいい」って言われると、
考えるのが面倒だからと丸投げされてるような気もするし、
「無理に付き合ってもらってる」
ような気がすることもあるのです。
なんか上手く表現できませんけど・・・。
だから、という訳でもありませんが、
私は自分が上のように尋ねられたら、
「なんでもいい」とは絶対に言いません。
食事なら、とりあえずはイタリアンやら中華
などと答えて相手にも同様に尋ね、
意見が一致すればそれを食べに行けばいいし、
違えば違ったで、またいずれかを選ぶ、
という感じです。
「なんでもいい」と返事して、
考えたり決めたり選んだりすることを他人に委ねれば、
その場ではとりあえずラクでしょう。
でも、「なんでもいい」とは、
せっかく与えられた意見を言う機会(←大げさですが)、
あるいは決定や選択を、
放棄するということですよね。
自分の主体性、つまるところ自分自身を、
捨てているのと同じことです。
たかが食事、たかが遊びに行く場所、
かもしれません。
でも何彼につけて、「なんでもいい」
と言ってしまう態度って、
その種の日々の些末事だけじゃなく、
それこそ世の中で起こってること全てに対しての
姿勢に現れてくるように思います。
そして、「なんでもいい」「どこでもいい」
が増える毎に、
自分はどうしたいのか、どうなりたいのか
という人生に関わることも、
はっきり描けなくなってきそうです。
「目的」があるから、そこに向かったり、
それを掴めたり達成できるのであって、
「なんでもいい」ならば、どこにも行けず、
何も得たり成し遂げられないことになります。
「なんでもいい」「どこでもいい」
と主体性なく生きることは、
他人に人生をコントロールされてるのと
大差ないんじゃないかと思うのです。
今日もお読みくださいましてありがとうございました。